この17〜18年色々なことがあり、正直生きていたくないとずっと思っていました。
でも今は、前を向いて生きよう、このまま人生を終わらせたくない、もっと新しいことをしてみたいと考えています。
まあまあ辛いことが起こり続け、人のいないところで泣き続けましたが、外では明るく元気に一生懸命色々取り組んできたら、人生上向きになってきました。
元来自分のことを話すのは苦手なのですが、私の経験をこのブログを通じて伝えることで、少しでも皆さんが、
「どん底からでもあきらめなければ上がっていけるもんだね」
と思っていただければ幸いです。
シングルマザーの営業マン
息子と2人暮らし。
バリバリの営業マンでした。
割と営業成績が良くインセンティブも出てそこそこの収入があり、念願のマンションを購入。
苦労してきた毋に綺麗な家で暮らしてもらいたかったため「一緒に住まない?」と誘いました。
私が仕事で遅くなった時に、幼児の息子を見てもらいたいという考えもあったかも。
そして息子が小学生になってから信じられないことが起こりました。
息子が小児がんと診断される
小学2年生の時に、元気だった息子が小児がんと診断されました。
頭が真っ白になり、ぼーっとしました。
でも泣いてるわけにはいかない。私がしっかりしなきゃ。進まなきゃ。
絶対に治る、いや治すんだ
積極的に治療開始。
手術・放射線治療後1年半は元気で過ごしていました。
しかしその後再発。
2回の手術後、抗がん剤治療を約1年実施。
終了後1年半は元気で学校へ行き、息子は中学受験するんだと勉強も頑張っていました。
再再発
小学6年の時にまた再発、放射線治療した1ヶ月後のMRIで、生きていくために1番大事な場所にがんが出来ていることがわかりました。手術もできない、放射線も出来ないところです。
何とかならないかと、名医に電話したりセカンドオピニオンを受けたりしましたが、どこも答えは「NO」でした。
そうこうしている内に、息子が自宅で倒れ救急車で運ばれました。
会社を休職、病院に住む
そこからつきっきりで息子の側にいました。会社に事情を話し休職。
簡易ベッドを借り、病院に住みました。とにかく息子に寂しい思いをさせたくありませんでした。
1年間は人工呼吸器をつけながらもコミュニケーションは取れていたのですが、その後意識を無くしてしまいました。そのあたりの私の記憶はほとんどありません。
会社の仲間が心配してくれて、復職することを勧められ、息子を病院に預け働きながら病院に通う選択をしました。
母と息子が亡くなる
実は、母も病気がちで、がんを何度か経験していたのですが、母も倒れて息子と同じ病院に入院しました。
がんの放射線治療の副作用が「10年後くらいに出るかも」と言われていたのですが、その通りになってしまいました。
母は入院後3ヶ月で亡くなりました。
その2ヶ月後に、まるで母が意識の無い息子を楽にさせてあげたかのように、息子も亡くなりました。
悲しすぎるとわんわん泣けないんですよ。
葬式で笑っている私を「おかしくなってしまったのでは」とみんな心配していたそうです。
借金背負う
休職中は収入ゼロ。
貯金もほぼ無く、お金を借りられる親戚もおらず、銀行のカードローンで毎月お金を借り続けました。
加入している生命保険からも「契約者貸付」で借りました。毎月の保険料は支払いできず「自動振替貸付」へ。
息子が再再発してから、西洋医学の標準的治療は何も出来ませんでした。
しかし諦めることができず、民間療法にすがりました。息子が倒れ、入院してからもその民間療法を続けたかったのです。担当医の先生は「お母さんと○○ちゃんがそれを希望しているなら」ということで、許可してくれました。
- 民間療法が月17万円
- 住宅ローン、生活費
数百万の借金を背負いました。
※息子の入院費用(人工呼吸器装着、栄養代等)については、『小児慢性特定疾病医療費助成制度』の重症患者認定で無料でした。
※借金返済については、別に詳しく説明します。
マンションを売る
一人でそのマンションに住み続けたくなかった気持ちもありますが、何より住宅ローンを払えなかったんです。息子の病気再発後、営業部門から管理部門へ異動していたので、年収がガクンと減ったこと、また借金返済もあったことからマンションを売却。
多少なりともプラスで売却できたのは良かったです。(引越し代くらい残った)
この続きは「ブログを始めた理由ー2」でお伝えします。
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